フラクタル
原子構造モデルと、太陽系。リアス式海岸の部分拡大図と、俯瞰図。
風の音、川のせせらぎ、生物の心拍−−これら1/ f揺らぎの波形。
その他、遺伝子情報、ホログラフィ、共時性−−等々。
大まかに列挙しました、これらの共通ファクターは何かと言いますと、それは「フラクタル」です。
フラクタルとは、全体の情報がその一部分に織り込まれている「自己相似」の状態、謂わばマトリョーシカの様な入れ子構造を表す幾何学のロゴスで−−詰まり、フラクタルになっているものは、その部分的データから全体像を読み取ることが可能なのです。
例えば、我々が日々接している時間や勘定といった数の概念もまた、見事に美しいフラクタルで構築されています。天体の運動から物質の分子に至るまで、全ては数値化が可能であり、数の構造はフラクタルです。
我々の存在するこの世界の構造は、遍くフラクタルと言っても過言ではなく、そうしてそれは、取りも直さず、宇宙の構造そのものなのでした。
まるでそれは、夢の中の夢、そのまた夢の夢を覗き見る様な、合せ鏡の無限世界。
幾重にも重なり、また同時に解体した−−眩めく様な、それはきっと、恒久の法則なのです。
幼き日の遊園地、一人迷い込んだ鏡の迷宮での−−確かミラーハウスと銘打たれたものでしたか−−あの、自己が分裂し、自我の崩壊を招く感覚が、幽かに思い起こされるのでした。
そうして、自身もまた、この完全なる法則の下に支配された存在なのだ−−と、そんな思いに囚われては、閉息感に息が詰まる様で、すると、心なしか食欲も失せ……テェブルを前に、私はぼんやりと、スプーンの先から滴る雫と、皿に拡がっては消えてゆく、雫の波紋を、只じっと見つめるのでした。
ふと、エントランスの鈴が鳴りました。
しかし、残念ながら、それは来店客ではありませんでした。
「『 Gさん−−あの方は、そんな剣呑な事柄に関しては詳しくてらっしゃる様ですけれど、其れを御自分で試すようなことは、きっと、ないのでしょう。
あのやうな人は、態々そんなことをしなくとも、仕合わせなことが、それは沢山、あるのでしょうから−−』
(前章より、一部抜粋)」
交代の時刻はまだ先でしたが、時たま、気紛れに早々出勤して来るD氏でした。
私は困惑を浮かべ、言いました。
「勝手に記録を編集されては、困ります」
けれどもD氏は、飄然として取り合わず、
「いえ、せっかく早くに来たものですから。少しばかり、僕も顔を出しておこうかと思いましてね。
それより、貴方はまた、自分と比べてG氏は随分と気楽で結構なことだとでも、考えていたのでしょう」
「……いいえ、そんなことは」
そう、否定をしたのものの、実のところが、その通りだったものですから、思わず笑みを繕っては、誤魔化し……。
さて、何でしたか……ええ、そう、そのフラクタルですが。実を申しますと、この店内にも、とっておきの例があるのです。レジカウンターの中で、雑然とした書架に紛れて在る、織り布の一冊。この本が、それなのです。
表紙には、『エキス』の題名。著者は、「黒兎」とあります。
内容はと言いますと、とある骨董店の主人達の様子や彼らの手記を、店の商品であるところの黒兎のヌイグルミが編集した−−という設定で書かれた、小説の様な、随筆の様な……一話毎の読切りで、どの頁から読んでも、差支えのない仕様になっているようです。
そして、その舞台や登場人物、挿話などですが、これがどうやら、私達のこの現実世界に則したものらしく−−この様なフラクタルの構成は、あたかも夢野久作の『ドグラ・マグラ』を模したかに思えます。
『ドグラ・マグラ』は、時間的、空間的フラクタルが全編に織り込まれた、正に宇宙の構造そのものといった小説なのですが……しかし、かといって、私達のこの物語のカラクリや、真意もまた、その辺りに有るのか、無いのか、それはどうとも、判らないのですが−−。
ふん、とD氏が低く鼻を鳴らしました。
「それにしても、書き手が生きた兎というならまだしも、ヌイグルミとは、如何にも胡乱<うろん>じゃありませんか。
如何にも突飛で、非科学的、非現実的な。
仮にそんな事があるとしたら、そのヌイグルミ……否、あれを是非とも解剖してみなくては−−」
そう言って、D氏は棚に座っている兎を一瞥しました。
その時、黒兎のヌイグルミが、毛衣の奥で冷汗でも流したのか、どうだか、私に窺い知ることはできませんでした。
そうしてふと、悪戯な笑みを浮かべたD氏は、私の手から本を取り上げると、
「どれ、何処から読んでもいいのなら、最後の章から見たって、構わないのでしょう」
頁を開くなり、淡々と読み上げるのでした。
「『オリジナル』なんて、何一つ存在しない。しかし、存在しないということは、即ち−−」
先刻、私はその本を、最初の頁から読み始めたばかりだったのです。
H.
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