眠り男
階段を下り、仄暗い廊下の奥処の一室を開けると、其処には眠り男が眠っています。
眠り男は一年の大半、一日の殆どの時間を、この地下室のベッドで眠って過ごします。
けれども、眠り男が眠り男になったのには理由がありましたし、眠りながらのべつ夢を視るので、べつだん退屈することはない
ようでした。
理由というのは、ある一人の人物を永年の眠りに置く為で、それが眠り男の仕事なのでした。
彼はある一人の人物の「揺籠」になったのでした。
そしてそれが、彼の存在理由の殆どすべて。
僅か残る眠り男のもう一つの役割は、精神科学のグロッサリー。
さて、今日は眠り男から Narcissism に関する項目を聞き出すことが出来ました。
僕はかねて疑問に思っていたのです。
「自分を愛せない者は他人も愛せない」などという、あのもっともらしいアフォリズム
について。
けれども眠り男の口述によれば、それはやはり、必ずしも真実ではないらしいのです。
眠りながら眠り男の言うには−−「自己愛から他者愛へ段階的に発達すると考えたフロイトに対し、コフートは両者は別途に発達するとした。」
自身にはこれ以上ない程の愛着があるのに、他人に心底の関心を持てない。
また他人には献身的に尽くすけれども、自己への尊厳が決定的に足りない。
よくよく観察してみると、こんな具合に著しく偏った傾向の人間が、案外と近くに居るものです。
何を隠しましょう、かくいう僕もその一人なのです(無論、前者ですとも)。
更にカーンバーグによれば、僕のような過度の自己愛は、病的、かつ悪性の其れだと言います。
何だか、見ず知らずの相手から、出逢い頭に無礼な挨拶でもされた気分です。
しかし健全ではないと言われたら、その通りでしょう。自他共に認めるディレッタントの僕の嗜癖は、病気も気違いも大差ないところでしょうから、その点に限って言えば、特に異存はないのでした。
元来、ヒトは誰しも本能的な自己愛を持っています。
「利己的な遺伝子」とも換言できる生存本能に直結したそれは、ごく健全なナルシシズムです。
一見ネガティヴな自己嫌悪という感情にしろ、裏を返せば、その正体は自己愛なのです。
嫌悪の裏には、自身をより高次の存在たらしめたいという自己への執着があります。
理想と現実との落差から引き起こされる、落胆や葛藤。
これが自己嫌悪という名の、傷ついた自己愛の正体なのです。
然るに、嗚呼。
僕には度々自己嫌悪を露にする幾人かの知人があるのですが、変形のナルシシズムとも知らず、自己嫌悪に耽溺する、彼らの無知蒙昧ときたら。
そんな彼らの様子を眼の当りにするにつけ、却って僕のほうが、羞恥の余り全身蒸気になる様で、いっそそのまま、蒸発して消えてしまいたくさえなるのでした。
さておき。もしも自己嫌悪すら感じないほど自己愛が不足しているという、そんな貴方には、特別に秘密の霊薬を得る方法をご紹介いたしましょう。
それは暫くの間、毎晩欠かさずに月光浴を続けるという、一見何でもない秘術です。
しかし僕の観察と検証では、月は自己愛の象徴ですから、月光浴は何と言っても効果絶大なのです。
ただし、これには簡単な決り事があります。第一に、必ず満ちていく月の光を用いること。
そして第二に、必ず独りきりで行うこと。
そうして幾晩か後、月が完全に満ちたなら、必ず最後の仕上げに、墜ちて来る満月のエキスを数滴、咽に垂らすのを忘れないこと。
E.
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