手 紙







 H主人の視界は、現実と空想の境界が曖昧だ。
 その為、ぼくは主人の空想に紛れ、自由に動くことも、喋ることも、食事を摂ることも出来る。
「やあ、兎君。今日は君の好きな木苺を持って来たよ」
 ぷつぷつと、果汁を孕んだ粒が球状に連なる、紅色の実。 それを盛った小さな篭を揺らして、年若い主人は、満足げに笑った。
 そうして、レジ台に置いた篭の実とぼくを繁々と眺めていたが、その眼の焦点は、次第に朧になり、また別の世界へ移行していく。
 やがて、主人は徐に抽出しを探ると、中から用箋とペンを取り出した。
 そうして暫く、またうわの空で筆を遊ばせていたが、添えた指先の空白に、やがて青いインクが滲んだ。




 今朝から天候が優れず、今、窓の外は雨です。
 しとしと、静かに降る雨の音と、店内には、いつの間にか低く流れているピアノ−−(これは確か、ショパンの曲)。 柔らかに屋根を打つ雨音と、ピアノの音が溶け合って、何だか気怠い……けれども優しい、コーラスの様です。
 雨の所為か、お客は一人もなく、店で飼っている兎が脇で苺を齧るのを見ながら、僕は君に手紙を書き始めたところです。

 ねえ、君。やっと書き出すことの出来たこれは、僕から君への、きっと最後の手紙になります。
 聡明な君は、近い未来、何れこうなることを、きっと知っていましたね。 けれど、どんな場所にもいつか訪れる別離というものが、君と僕との間にも、やっぱりこうして、当り前のようにやって来たことが、今は何故か、不思議に思えてなりません。

 ほんの少し前まで、僕達は、小さな函の中で溶け合っていました。 そこは僕達の、小さな楽園でした。
 けれど、事態はあまりに急速に推移して、いつの間にか、僕達は厚い硝子に隔てられ、互いの意思の疎通さえ、困難になっていました。
 今、君の顔は硝子越しに、ひどくぼんやりと、霞んでいます。
 君は確かに其処に居るのに、何故か、とても遠くて、僕の心は、どんどん暗く、虚ろになります。
 そうして、とうとう、君と繋がっていた筈の糸は切れ、僕という人間は、君にとって、必要な存在ではなくなってしまいました。

 僕達が共有した時間は、長いものではありませんでした。
 けれど、君と過したあの一つ一つの瞬間が、僕には、まるで永遠も同じなのです。
 だから、この手紙を書き終えたら、君との思い出は、全部、綺麗に切り取って、固い箱に詰めて、鍵をして、帰ったら、押し入れの一番奥へ、仕舞ってしまうつもりです。鍵は、特別に鉄を好んで食べるという、近所の動物園の山羊にあげてしまいます 。
 そうして僕は、君の存在を、白痴の様に忘れてしまう。
 けれど、寂しくはないし、悲しくもありません。 それどころか、正直に告白するなら、実はもう、随分前から、こうなることを待ち詫びてさえいたのです。 さよならして、忘れてしまえば、遠くなるばかりの君との距離に、もう、怯えることもなくなるからです。
 僕はきっと、酷く臆病で、卑怯な人間です。

 だけど、いつだったか、君は微笑んで言いましたね。
 −−別れがあるから、出逢いがあるのでしょう?−−
 本当に、君の言う通りです。その言葉は、間違えようのない真実でした。
 そう、もう一度、僕達が出逢う為には、今、完璧なさよならが必要なのです。
 だから、これから別々の出逢いへ向かうだろう僕達は、次の世界では、お互いに、まるで初めて出逢う者同士のように、笑って、きっとまた逢えるでしょう。
 そして、それはきっと、この手紙を投函し終えて、雨の止む前に、僕が君を忘れるのと引き換えの来世です。


B.